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No:515 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part510 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/09/07 09:32:17 単表示 返信

虐殺の嵐はパリのみならずトゥールーズ、ボルドー、リヨン、ブールジュ、ルーアン、オルレアン、モー、アンジェ、ラシャリテ、ソミュール、ガヤック、トロワの主要12都市でも吹き荒れました。

犠牲者は最低でも7000人を下回ることはないと言われています。

期間も5日どころではなく、秋まで逝ってもまだ終わらない泥沼の様相を呈していました。

神父どもは右の頬を打たれたらどころか打たれる前に敵の首を左から狩れ等と抜かす始末で、和解しようなんて意志は1mmもありませんでした。

同じ口で汝の隣人を愛せよとか言ってんですかね?

厚顔無恥にも程がありますわ。


          ◇          ◇          ◇


一方で。

この集団ヒステリーから逃れられた者もいます。

例えばナントでは、早漏の一部市民が暴動を起こしていましたが軍は動きませんでした。

保身なのか先見の明かは分かりませんが、市長がアンジュー公からの粛清令を無視してサボタージュ決め込んでいたため国王からの撤回命令が間に合ったのです。

何にしても多くの市民の命が助かったのは事実なので、そこのところは評価してもいいんじゃあないかと思いますわええ。


          ◇          ◇          ◇


また、これとは別のケースですが・・・・・・

ルーヴル宮殿に宿泊していたプロテスタント貴族の内、新婚のナバラ王と従弟のコンデ公は処刑を免れました。

こちらは純然たる政治的意図によるものです。

間違っても結婚してすぐあの世行きを憐れんだなんて甘っちょろい理由ではありません。


          ◇          ◇          ◇


そもそもの話。

何故プロテスタント盟主ナバラ王アンリとカトリックの首魁であるフランス王女の結婚が成されたかと言えば、新旧教融合和解がお題目だったはずです。

それを結婚して早々片方抹殺したとあっては何のための結婚かわかりゃしません。

・・・まあ、虐殺決行しておいて何を今更ではあるのですが。

虐殺のタテマエが「国家反逆の予防」なので、どれだけ見え透いてても和解の象徴である結婚をなしには出来なかったのです。

それに元々カトリーヌはナバラ王をマルゴで籠絡して改宗させるプランがだったとも。

その意味でこの助命は必然だったと言えます。
  • No:516 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part511 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/09/14 09:49:04 単表示 返信

    さて。

    一部の幸運者を除き、老若男女問わず殺戮の嵐がフランス全土に吹き荒れた訳ですが・・・・・・

    カトリーヌがここまで望んでたかと言えば、間違いなく否でしょう。

    彼女は現実主義者であり、宗教に関してはむしろ無関心に近かったと言われています。

    プロテスタントを嫌っていたのも度重なる王家へのテロ行為からであり、教義なぞカトリックのものですら知ってるか怪しいものです。

    つまり彼女にとってプロテスタントはただの反乱分子で、この世にいてはいけない悪魔でもなければ一人残らず滅ぼすべき異教徒でもなかったのです。


              ◇          ◇          ◇


    それが証拠に。

    パリ在住ユグノー首脳陣を粗方処した8月26日に、国王シャルル9世はパリ高等法院で「此度の争乱はユグノーの陰謀の阻止である」と宣言し、戦勝パレードを行いました。

    裏通りどころか表でも虐殺と戦闘は続いていましたが・・・・・・国王一派はガン無視しました。

    そして宮殿に戻るとシャルル9世は書簡を書き、治安を乱さない限りプロテスタントに手出ししないよう命じます。

    第一作戦目標(コリニー提督抹殺)は達したので、この辺で手打ちにしたかったのは明白でした。

    しかし。

    そんな甘っちょろく都合のいい話はがあるはずもなく。

    虐殺と混乱は留まるところを知らなかったのです。


              ◇          ◇          ◇


    原因の一つとして。

    狂信者ギーズ一派とシャルル9世に嫌がらせがしたいアンジュー公アンリが結託し、先んじて各地にユグノー抹殺指令を出していたことが挙げられます。

    当時電話なんて便利なものはありませんでしたから、どうしてもタイムラグが発生します。

    ナントみたいに日和見サボり決め込んでれば別ですが・・・・・・

    そのような幸運に預かれた者は、ごく僅かだったのです。


              ◇          ◇          ◇


    もう一つの原因はまさにこのタイムラグにあり、重装の軍より早馬の方が速いのは必然です。

    つまり震源地のパリと違い、地方のプロテスタントには行動を決める猶予がありました。

    中央に近いプロテスタントは恐慌のあまり信教を捨てる者が続出しましたが、地方ほど国外脱出を選ぶ者が多かったと言います。

    要するにユグノーをこの機に根絶やしにする等土台不可能であり。

    その見る目の無さが泥沼の戦いに通じていくのです─────────
  • No:517 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part512 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/09/21 10:44:59 単表示 返信

    命辛々逃げ出して人心地ついたユグノー逹は、この一方的な虐殺劇に深い憎悪を滾らせます。

    特に今回の「国王の命」による「先制攻撃」は、彼らの心理に激甚を熾しました。

    これまでのユグノーの行動は「佞臣より王をお救いする」で一貫していました。

    手段こそ短絡的であったとは言え、其処には確かに王家への忠誠があったのです。

    それが最悪の形で裏切られたのですから、彼らの怒りはまさに天を衝く勢いでした。

    彼らは王家に完全に失望し、見限りました。

    そして。

    後の本格的な革命の萌芽が、この時生まれたのです。


              ◇          ◇          ◇


    テオドール・ド・ベーズという神学者がいます。

    ブルゴーニュ地方はヴェズレーの知事ピエール・ド・ベーズの息子で、ジャン・カルヴァンの死後はカルヴァン派の首魁となった人物です。

    彼はこの惨劇を悲しみ、ある決心を元に書をしたためます。

    『臣民に対する為政者の権利について』と題されたそれは、端的に「人民に認められない王は王足りえず、僭王に対抗するのは合法である」と主張するものでした。

    後に言うMonarchomaque、暴君放伐論がここに産声を上げのです。


              ◇          ◇          ◇


    この暴君放伐論は要するに悪い奴は王だろうが柱に吊るされるのがお似合いだという大変分かりやすいものでしたので、すぐに広まりました。

    まあ軍組織として旗印にするには少々野放図なきらいもありましたので、ゲルマン伝統の等族国家文化等も取り入れつつ整備されていきました。

    最終的には「君主の統治権は人民との契約の元に与えられる」とされました。

    神→君主と神→人民の間に契約があるとし、君主は神の法を遵守し人民に法を守らせる義務があるとするものです。

    つまり君主自身が神の法を守らないなら、人民は神の法を優先して当然で、神に背いた君主はポイして良いということです。

    この神の法から神を除いて「人が守るべき法」とすると民主主義の原型の一つになります。

    つまるところが。

    フランス王家は目先のたんこぶ除去するために、自らの命脈を滅ぼす致死毒を生成してしまったのです。


              ◇          ◇          ◇


    この埋伏の毒は百年の時を経て、まずイングランドで炸裂しました。

    後に言う清教徒革命です。

    そして更に百年後。

    史上最大の流血革命としてフランスに舞い戻ってくるのです─────────
  • No:518 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part513 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/09/28 09:35:42 単表示 返信

    なお勝鬨を上げた旧教&国王派も、勝利の美酒に酔っていられたのはほんの一時に過ぎませんでした。

    各地から脱出してきたユグノー陣営が、ラ・ロシェルに集結して徹底抗戦の構えを見せたのです。

    第4次ユグノー戦争の始まりです。


              ◇          ◇          ◇


    国王軍はアンジュー公アンリを旗印に鎮圧に向かいましたが、抵抗が頑強で中々進みません。

    ここで敗れでもしたら暫く立ち直れなくなるのは明白でしたから、ユグノー側も必死です。

    そうしてすったもんだしている内に思わぬ横槍が入ります。

    ポーランドの介入です。


              ◇          ◇          ◇


    なんでいきなりポーランド? と疑問の諸兄もおられるでしょうから解説しますと。

    実はサン・バルテルミの虐殺に先立つこと1月前。

    ポーランド王ジグムント2世が嫡子なくして逝去し、ポーランド議会が新国王擁立に動いていたのです。

    神聖ローマ・スウェーデン。ロシア等から候補者が選出され、フランスからもアンジュー公アンリがエントリーしていました。

    そして1573年5月にアンジュー公が玉座を射止め・・・・・・

    ぶっちゃけた話、前線司令官が軍を指揮するどころではなくなってしまったのです。


              ◇          ◇          ◇


    そんなこんなでブローニュ勅令が急遽認められ、1573年7月に発布して第4次ユグノー戦争は終了しました。

    急ごしらえの所為か条鋼は微妙になおざりで、ユグノーの赦免くらいが目玉の正直やっつけ感の漂うものでした。

    だからと言う訳でもないでしょうが・・・・・・

    半年もしない内に、またしても戦乱がやってくるのです。
  • No:519 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part514 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/10/05 10:52:48 単表示 返信

    虐殺が未だ記憶に新しい1574年2月。

    サン・ジェルマンにてもう何回目か数えるのも億劫になるクーデター未遂事件が起こりました。

    クーデター自体は即行鎮圧されたのですが・・・・・・首謀者らの主張が地味に問題でした。

    彼らユグノーは自らの盟主たるナバラ王アンリとコンデ公アンリの解放を要求しており。

    この当時(強制的とは言え)カトリックに改宗済2名の「救出」を主張してきたところに根深い問題があったのです。


              ◇          ◇          ◇


    端的に言いますと。

    ユグノーの重鎮であるこの二人がカトリックに寝返ったとする離間策は何の効果も上げておらず、未だにユグノーの指導者層であると認識されていると証明されたようなものだからです。

    同時多発的に各地で蜂起したユグノーらの動向もそれを裏付けており、宗教戦争は終わりの見えない底無し沼へと直走っていました。

    そんな中。

    決定的な事件が起こります。

    サン・バルテルミの虐殺からずっと塞ぎ込んでいたシャルル9世が遂に崩御したのです。

    23歳の儚い生涯でした。


              ◇          ◇          ◇


    死去の前日、死の淵にあった国王は最後の仕事として母后カトリーヌを摂政に任命したといいます。

    ・・・・・・が。

    敬愛するコリニー提督の事実上の殺害指令を出してしまって鬱状態にあったシャルル9世に、そんな気力があった気は正直しませんわね。

    例によって自分の都合のいいように流布したのでは? とわたくしは思っていますが・・・・・・

    真相は歴史の藪の中ですわね。


              ◇          ◇          ◇


    ともあれ。

    制度上も実務面でも政治的パワーバランスから考えても、国王不在のままでいい訳がありません。

    直ちに次の王を据えなければならないのですが・・・・・・重大な問題が一つ。

    継承権第一位のアンジュー公アンリが既にポーランド王に選出されており。

    フランス国内にいなかったのです。
  • No:520 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part515 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/10/12 09:56:46 単表示 返信

    国内にいるいない以前の問題で、そもそも他国の現役王がフランス国王になれるの? と疑問を持たれた其処の貴方。

    実は王の兼任というのは、大して珍しいものではなかったりします。

    中世のみならず現代においても、例えばイギリス女王は英国のみならず英連邦王国14カ国の君主であります。

    何故こんなことになっているかと言いますと・・・・・・

    まさに今回のように継承権上位が他国にいる事態が多発したからです。


              ◇          ◇          ◇


    カトリーヌに限らず欧州王侯貴族は、婚姻によって勢力を増してきました。

    ということは自動的に主だった権力層は軒並み親戚化し、親等で序列化される継承権が国内外にバラ撒かれるのはむしろアタリマエの帰結です。

    まあポーランドの場合は選挙で決まったのでやや特殊ですが・・・・・・

    それでも縁もゆかりもない者は候補に挙げられることもなかったのです。


              ◇          ◇          ◇


    さて。

    そんなこんなでポーランド国王として赴いていたアンジュー公アンリですが・・・・・・ぶっちゃけ歓迎されていませんでした。

    正統王位継承権があるとは言え、所詮は外国人の外様。

    しかもアンリは側近を母国から連れてきたフランス貴族で固め、地元貴族を重用する素振りすら見せませんでした。

    アンリ自身もポーランド体制に不満があり、後にヘンリク条項と呼ばれる権力の制限に署名したものの納得は行ってなかったと言われています。


              ◇          ◇          ◇


    そんなこんなで新国王体制は前途多難と見られていましたが・・・・・・

    多難どころでない事態が発生します。

    シャルル9世の崩御を聞いたアンジュー公アンリが、数日後に夜逃げしたのです。
  • No:521 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part516 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/10/19 09:21:36 単表示 返信

    アンジュー公がポーランド王に選出されたのが1573年5月でポーランド入りしたのが1574年1月、夜逃げしたのが同年6月と言われていますから、選出から計算しても1年ちょっとの政権です。

    セミのような政権と呼んで差し支えないですが・・・・・・

    勿論王が存命中に政権が終わるなど前代未聞です。

    ・・・まあ、200年ほど後に他ならぬフランスで国王夜逃げ事件が再発するのですが。

    それはまた別の講釈にて。


              ◇          ◇          ◇


    ちなみに。

    ポーランド王に選出されてからポーランドに来るまで半年程空いてますが・・・・・・

    これはサン・バルテルミの虐殺からこんち結核が悪化する一方のシャルル9世の後釜狙い身を案じて中々フランスを発たなかったからと言われています。

    まあポーランド王としての活動から見て、少しくらいポーランド入りが早まったところで何か変わるとは思えませんが。

    シャルル9世崩御はポーランド王選出からまるっと1年後ですから、粘ったところで意味はなかったのです。


              ◇          ◇          ◇


    ともあれ。

    国王に夜逃げされたポーランドは当然大騒ぎになりました・・・・・・

    なりました

    是が非でも連れ戻そうという気は全くと言っていいほどありませんでした。

    前述のようにポーランド貴族はアンジュー公のやり方に不満しかなかったので、むしろ清々したわと思った貴族が大半だったのです。

    それでも正規手段で選出された国王なので、一応1575年5月12日までの猶予を設け、それまでに戻ってこなければ王位を剥奪する旨通達を出しました。

    出しっぱなしで特に催促もしなかったらしいので、文字通り形だけーのポーズでした。

    当然の如くアンジュー公はガン無視したので期限オーバーで王位失効が宣言されましたが、当人は死ぬまでポーランド王を名乗っていたそうです。


              ◇          ◇          ◇


    さて。

    フランスに舞い戻って早々アンジュー公アンリは戴冠式を行い、フランス王アンリ3世となりました。

    国内は宗教対立が激化の一途を辿っており、これをどうにかすることが喫緊の課題でした。

    しかもただでさえ出口の見えない問題に、身内から火に油を注ぐ者まで出てきます。

    エルキュール・フランソワ・ド・フランス。

    アランソン公フランソワとも呼ばれるカトリーヌ最後の息子です。
  • No:522 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part517 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/10/26 09:42:00 単表示 返信

    フランソワは末っ子にありがちな甘ったれであったらしく、大分放蕩なことをやっていたみたいです。

    ただこういうガキ大将気質は取り巻きを呼ぶもの。

    シャルル9世存命の頃からやんちゃなユグノー貴族が周辺に侍っていたようです。

    それはアンリ3世が即位してからも変わらずと言いますか激化して行き。

    1575年9月には宮廷から脱走してポリティークと呼ばれる不満派の頭目となって現政権に反旗を翻すのです。


              ◇          ◇          ◇


    先の歴史的虐殺サン・バルテルミの惨劇は、革命思想の萌芽である暴君放伐論の他に新たな議論と概念を呼び起こしました。

    暴君放伐論がプロテスタントの革新理論武装なら、ポリティークはカトリック穏健派の保守理論武装です。

    最初に理論化したのは経済学者にして法学者、そして弁護士ジャン・ボダンとされています。


              ◇          ◇          ◇


    ポリティークは歴史上初めて国家主権という概念を定めました。

    封建制国家の王というものは、あくまで「地主のボス」に過ぎませんでした。

    なので国王の権限は言うほど大きくなかったのです。

    しかしポリティークは地主或いは貴族を無視し、「国王と国民」の2層に単純化しました。

    「家に家長が一人であるように、国家に王はただ一人」という訳です。

    ちなみに。

    家長(国王)はどのように決めるかと言いますと、ボダンは著書「国家論六編」で殴り合いで決めろ等と供述しています。

    まあ現実的と言えばそうかも知れませんが。

    法学者ならもうちょっと知性ある方法提唱して頂きたいものですわね。


              ◇          ◇          ◇


    まあもっとも。

    このジャン・ボダン、異端審問官としても有名ですので。

    悪名高い「悪魔憑き」はこの狂信者が著したものです。

    長らく魔女狩りのバイブルとして用いられ、無実の犠牲者がどのくらいの数に登るかもはや知るすべもありません。

    経済においても国家体制にしても近代的理論の先駆けとなった人物ですが・・・・・・

    個人的な善悪としては明白にギルティと思いますわええ。
  • No:523 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part518 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/11/02 09:39:04 単表示 返信

    ところで。

    若い頃ユグノー貴族の取り巻き引き連れてブイブイ言わせてたアンジュー公が何故にカトリック不満派の頭目になぞ祭り上げられたかと言いますと。

    どうもアンジュー公フランソワ、宗教的主張はどうでもいい派だったようで。

    要するに自分を疎む母と兄弟に嫌がらせする以上のことは考えてなかったぽいのです。

    迷惑系甘ったれも極まれリですが・・・・・・

    カトリーヌは特にひとつ上の兄アンリ3世を溺愛してたらしいので。

    彼だけが悪いとも言い切れない部分はあります。


              ◇          ◇          ◇


    ついでに不満派はカトリックの専売特許という訳でもなく、例えばラングドック地方総督モンモランシー=ダンヴィルは1574年11月にプロテスタント派に寝返っています。

    と言う訳でフランソワ首魁の反宮廷派は無視できない勢力に膨れ上がり、更にはプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハン1世もシャンパーニュに侵攻し王家に敵対する動きを見せ。

    代替わりしたばかりの国王軍は圧倒的不利と見られるようになりました。

    今正面衝突するのはあまりに危険と判断したアンリ3世は、王弟フランソワと交渉の席を設けることになります。


              ◇          ◇          ◇


    現在の情勢をよく理解していたフランソワは、それはもうかさにかかってきたと言います。

    結局アンリ3世とカトリーヌは、ほとんどフランソワの言いなりのボーリュー勅令を発せざるを得ませんでした。

    王家側の腰砕けはダダ漏れだったようで、この和議協定は「王弟殿下の和議(paix de Monsieur)」と呼ばれるようになります。

    この勝利こそフランソワが長年求めてやまなかったものであり。

    彼のさして長くない生涯で最高に輝いた頂点でありました。


              ◇          ◇          ◇


    ちなみに王家にとって泣きっ面に蜂なことに、サン・バルテルミの虐殺時に捕縛して王宮の隅に押し込めていた元プロテスタントの盟主ナバラ王アンリと腹心コンデ公アンリも時を前後して脱走。

    強制的に改宗させていたカトリックからプロテスタントに復帰し、ユグノーの盟主として活動を再開しました。

    やはり殺っておけばよかったと後悔しても後の祭り。

    もっとも後のアンリ4世としての治世を考えると、虐殺時に殺されていたらその後のフランスはもっと酷いことになっていた可能性もあります。

    全く、歴史は何がよく働くかわかったもんではありませんわね。
  • No:524 タイトル:GEAR戦士撫子 新Part519 お名前:プロフェッサー圧縮 投稿日:2022/11/09 09:49:50 単表示 返信

    さて。

    フランスがプロテスタントの言いなりになるのに我慢できない一派がいます。

    ご存知旧教過激派ギーズ一家です。

    彼らはそのものズバリなネーミングのカトリック同盟を結成し、議会で結託してボーリュー勅令を廃止させます。

    この当時絶対王政は未だ理論武装の途中で、大貴族に結託されると王家は強く出れなかったのです。


              ◇          ◇          ◇


    またもやと言いますかもう何回目かわからない約束の反古を食らったプロテスタント陣営は、当然猛抗議を始めました。

    1576年は三部会が開かれたので其処で舌戦が繰り広げられましたがプロテスタント側は数の暴力に屈し。

    御決まりの武装蜂起を繰り返すこととなります。


              ◇          ◇          ◇


    ちなみに三部会というのは聖職者・貴族・平民の代表が集まって行う会議のことです。

    各代表が一票を持ち、多数決で決定されます。

    元々は1302年にフィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世を拉致監禁した正当化のために招集されました。

    なんともはやな理由ですが、以後の三部会は概ね税金の設定のために招集されています。

    別に税に関することだけが議題ではないので、このように宗教問題も俎上に上がる訳です。

    もっとも今回ある意味役立たずでしたが。

    国内問題に対処するための会議なのですから、武装蜂起されては意味がないというものです。


              ◇          ◇          ◇


    まぁそうして起きた第6次第7次ユグノー戦争は短命に終わるんですが。

    何故なら前回ユグノーに与したアンジュー公以下不満派が、今度はカトリックについたからです。

    ・・・ほんっっっっっっとうにこの男節操がないと言いますか何処のSRPG黒騎士かと。

    それでもきっちり勝利してしまう辺りムカつきますわええ。